八幡獅子
八幡町(津八幡宮氏子町)の古老の伝えによれば、昭和年間に舞曲の最も優美な鈴鹿・郡山より舞い方を学び、八幡の雄獅子、雌獅子が舞ったと云われています。
八幡獅子は古来、観音獅子に続いて正月15日に舞う格式を持って藩政末期まで受け継がれていましたがいつしか衰微したのを、明治31年鐘鳴が再び郡山から学び、大正初期まで空きの祭礼後40日の間、氏子各町を舞い続けたものです。
戦災焼失の獅子頭は、椿の木で作られ5貫目もあり、これを持って舞う人も少なく歯のみがたがたさせたので、「八幡のがたがた獅子」とも云われたそうです。
八幡獅子にまつわる伝説も多く、藩祖藤堂高虎にちなみ遠く朝鮮或いは四国の伊予に由来を求める古老もいて、それだけに笛の音色と共に伝統を守る人々に共通の哀感を呼び起こし、遠い昔の幻想にひたらせてくれるものなのです。
いはれ
獅子舞、そしてその笛の音(ね)色、─それは、私たちの故里が山深い里の日蔭の村であろうとも喧噪(けんそう)に明け暮れる都会のちまたであろうとも、私たち日本人にとつて共通のあい感を呼びおこし遠い昔の想い出にひたらせてくれるものなのです。
八幡獅子は寛永12年(1635)の昔藩租高虎公の御霊(みたま)を祭る八幡宮より津観音寺(観音さん)、津市内、そして市中各町へと祭礼の行列が繰り出した当時から神輿の先達として雄獅子、雌獅子が“かしら”“あともち”の2人づつに捧持されて行列に加はつたのがそのはじまりといはれています。
津での獅子舞の記録は、「大宝院日記」に明和(1764〜71)の頃、郡山の獅子舞が津城で正月十一日に舞うとありますがおそらくこれが最初で、八幡町の古老のつたえによれば明和年間に舞曲の最も優美なこの郡山より舞い方を学びとり楽器を用いて2匹の八幡の雄獅子、雌獅子が荘重にしかも華やかに今につたはる“おこしの舞”“かど舞”“扇の舞”などを舞ったといはれています。津市史によれば、藩政の末期津で舞った獅子に御厨観音、八幡宮社、奄芸郡郡山(鈴鹿市)、鈴鹿郡三ツ寺村(亀山市)などの8種類をあげているがいずれも由緒(ゆいしょ)をもつた祈祷の舞で4年に一度うるう年に舞ったといはれ、特に八幡宮と観音の獅子は津市内を一巡すると帰社、帰寺したほどに、神事として格式も又、重んじていたそうです。しかし、いつしかその舞も衰微していたのを明治31年2月10日これを中興復活し鈴鹿郡山より再び学びとり大正の初期まで毎年祭礼後40日ほどの間氏子各町を舞いつづけたということです。これは、わずかに焼け残った太鼓の胴の裏側に「発起人津八幡町南組 石川作太郎 石河覚造 高鶴信吉 飯田儀之助 奥山作太郎 谷長松 明治三拾壱年酉二月十日、細工人三重県廳前檜物師 慶次郎 明治三拾壱年酉二月八日之作る」とかすかによまれる貴重な記録によって当時を知ることが出来るのです。
舞に使った八幡の獅子頭は、一説によれば観音さんの獅子頭とともに藤堂高虎公が伊予よりこの地に移封された節に持参のものともいはれ藩政時代には、うる年に伊予よりその兄弟獅子が津を訪れ舞ったともいいつたえられています。又、八幡のそれは兄弟である観音獅子とは対称的で観音獅子はひたいに角をはやした赤獅子でやさしく、八幡雄獅子はひたいに玉をいただく金獅子で大変いかめしく、雄獅子は鼻皺が三段、雌獅子は二段とか又、椿の木でつくられ5貫目もあったのでこれを持って舞う人も少なく口歯をだけがたがたといはすことが多く“八幡のがたがた獅子”ともいいはやされていたそうです。
明治中興には中をくり抜き軽く舞いやすくその獅子頭も戦災で焼失、今はみるすべもありません。氏子町内をまはる八幡獅子は、昼時には氏子の座敷の床の間に獅子頭をまつり“………いただいたごちそうの味はなかなか忘れられんな………”という古老のしみじみとした思い出話を通してのみ古き良き城下町のむかしを想ひめぐらすしかないようです。
昭和44年5月 津民芸保存会